~宮田の幼少期から現在まで~part1
こんにちは!埼玉支店20卒の宮田です!
こんかいは私の21年を紹介します!
小さい頃の記憶はほとんどうる覚えですが…
Profile
〇宮田和音
〇1998/12/9生まれ
〇長野県出身
〇好きなもの:Johnny’s(SnowMan、SixTONES)・苺🍓・睡眠
幼少期
〇生後~幼稚園入園前
生まれるときは難産だったらしく、すごくバタバタしたし夜中だったから大変だったらしいです。
またまだ頭しか出てないのに泣いていたらしくやかましいのはそのころからかわらないとよく父に言われます。
外で遊ぶことはあまり好きじゃなかったらしく洗濯籠の中に入ったりして遊んでいたらしいです。
祖母曰くおてんば娘だから怪我ばかりしているしとにかく目が離せなかったとのことです。
洗濯籠の中に入って遊んでた時に転んで引き出しの取っ手で頭を切ったときの傷は今でも残っています!
はいはいや歩き出すのは遅かったらしいですが歩き始めたらとにかく活発で大変だったみたいです。

生後半年の時
〇幼稚園
年少さんの記憶はほとんどないのですが家が好きすぎて幼稚園に入園してから半年近くいくのを嫌がって祖母を困らせたのは覚えています。
教室に入るのも嫌でずっとテラスから動こうとせず担任の先生も困らせてました。
教室に入るようになったきっかけは夏になったからでした。
教室に入るようになってからもしばらくは教室の端にいた気がします。
年中さんの時の記憶は全くありません。でも体操とピアノと塾を始めたのは年中さんの時だったはずです。
年長さんの時で一番記憶に残っているのは担任の先生と友達数人と一緒に園庭に落とし穴を作り隣のクラスの担任を落としたりしていました。
そのころから地域の行事に参加したりしていました!

2個下の弟と善光寺の御開帳の時のです。
頭の飾りがめちゃくちゃ重たかったです。
小学校~高校
〇小学校

小学校1年の時も学校に行きたがらず当時怪我で休職していた父に引きずられながら学校に行っていました。
学校についてからは校長先生に預けられて今度は校長先生に引きずられて教室に行っていました。
しばらくすると校長先生が校門でじゃんけんを始めてくれそれが楽しみで学校に行くようになりました。
始業ぎりぎりまで校長先生から離れず、始業の時間になると校長先生と教室まで行くのが日常でした。
小学校2年生になるまでは友達と遊ぶより校長先生とお絵かきをしていることが多かったです。
また放課後は色々と習い事をさせてもらっていたので放課後に友達と遊ぶのも少なかったです。
校長先生が変わってしまいましたがなぜか毎朝の校門じゃんけんは引き継がれていたため毎朝校門に校長先生とのジャンケンの列ができていました。
高学年になると運動会では必ず応援団に所属していて運動会の直後は真っ黒に日焼けしていてその時期になるとあだ名が焦げパンになりました。
声がでかくてよく通るということから6年生のときには団長を任せてもらいました。
次の日に合唱団のイベントがあったのですが叫びすぎて声が出なくなり合唱団のイベントにただいるだけの人になっってました。
6年生の時は姉妹学級の1年生に家族ぐるみで仲の良い子がいたりで長い休み時間になるとよく一緒に遊んだりしていました。
また6年生は清掃の時1年生の補助をしていたのですがトイレ掃除は月一で事件が発生していて先生たちの悩みの種になっていたそうです。
床が水浸しはまだいいほうで私が遭遇したのは水道が折れトイレの中に噴水ができたということです。もれなく全員びしょぬれになりました。
小学校の卒業式の日にその時の校長先生が父が中学の時の担任だったと知りびっくりしました。

家族でスキーに行ったときの写真です
スキーは2歳ぐらいからやっていて何度か飯綱リゾートスキー場のポスターにも載せてもらいました。
〇中学生
中学は私にとって黒歴史の始まりです。
周りに合わせるのが苦手で幼馴染ともクラスが離れてしまったため常に一人でいました。
それがいい的になったのかクラスのいじめの標的になりました。
特に気にもしていなかったのですがお気に入りのキーホルダーを壊されたり眼鏡を割られたりしたときはさすがに思うところがあったので校長先生に愚痴ったりして発散していました。
部活も吹奏楽部という女子ばかりの部活だったため陰湿ないじめも多く教頭先生を巻き込んでのミーティングを何度もしていて学校内で一番問題児の集まる部活とされていました。
そのころに友達のお姉ちゃんに誘われコスプレを始めました。
学校では居場所がなかったがコスプレを一緒にしてくれた人たちはしっかり自分を見てくれていたのでどんどんのめりこみました。
初めてコスプレをしたキャラは黒子のバスケの赤司征十郎です。(本当は緑間をやりたかったが身長が足りずできませんでした)
高校受験の合格発表の日結果を聞いた生徒から速やかに下校するように言われていたのでですが同じ高校を受けた人で前期合格のできた生徒で集まりお祝いという名の雪合戦をして次の日に生徒指導の先生にめちゃくちゃ怒られました。
反省文を初めて書いたのもこの時でした。
〇高校
高校の入学式の日に父から「実はお父さんもこの高校通ってたんだよ」と言われました。
なのでわたしは幼稚園から高校まで父と同じ学校に通っていたことになります。
高校に入学してすぐに祖母が亡くなり楽しみにしていた山林実習に行けなくなったときは複雑な思いでした。
祖母が亡くなった日の次の日が高校生初の定期テストだったので早く寝ようと思ったのですが大好きな祖母が亡くなったことがショックで家に帰ってきた祖母の横で一晩中勉強をしていました。
テスト当日も祖母から離れたくなかったため特別にほかの生徒とは別室で受けさせてもらいぶっ通しでご強化のテストを受け速攻家に帰りました。
高校生活がスタートしてすぐにこんなことがありましたが中学の時は嫌いだったグループで行動するようになりました。
校庭で写真を撮るのにはまってました 幼馴染が加工してくれた画像
ベストを着ているのが私です
高校ではいろんな部活を掛け持ち持ちしていました。
一番本気だった部活は園芸太鼓という和太鼓部です。
園芸太鼓という名は学校名が須坂園芸高校だからというのともともとは生徒会メンバーがやっていたことだからこの名前だということです。
私は身長が高いということから2番目に大きい太鼓を担当していました(演目によっては一番大きい太鼓の時もありました)
始めたばかりのころは腕力もなくウォーミングアップだけで腕がパンパンになっていましたし撥で擦れてしまい手の皮がむけて撥を赤く染めたこともありました。
私の代が卒業と同時に学校が合併し学校名が変わってしまいましたが園芸太鼓も名前を変えてまだ続いているそうです。
しかも私たちが現役のころはぎりぎりの人数しかいなかったのが今は一番人数の多い部活になったそうです。
他に入っていた部活は軽音学部(3か月で辞めました)、IAC(インターナショナル・アクション・クラブ)、造園クラブです。あと同好会として吹奏楽にも所属していました。
高校3年の時には図書委員会の副委員長、IAC,造園クラブの副クラブ長を兼任していて文化祭の時に学校内を走り回っていました。
高校二年生から幼馴染の紹介でバイトもしていたのですごく充実した高校生活でした。
バイトはクリスマスが一番忙しい某チキンのお店です。
はい!今回紹介するのはここまでです!
次回専門学校時代から現在までを紹介したいと思います!
次は埼玉支店の同期イノ君の自分史の紹介です!
お楽しみに!!
最後まで閲覧ありがとうございました!