モンスターが人間を目指すドキュメンタリーです。
皆様こんにちは。埼玉支店のオイエです。
たまには自己紹介でもしてみようと思うのです…え?興味がない?
大丈夫です。安心してください。僕の半生軽く漫談ですので。
保育園のころまで
1997年3月6日 大分県中津市に長男として生まれました。

もの静かな子だったらしいです。
じいちゃんは「口が聞けんのやないか」と病院まで連れてこうとしたくらいです。
3歳になるころには妹も生まれました。長女は僕が名付けました。

そんな感じでやってたんですが、4歳頃でしょうか?
特定疾患を患います。ここからはずっと病院生活。
当然友達も出来ず、毎日ベッドの上。
ここでの暇つぶしのお絵描きが今ではたまに役に立つ趣味の絵画にも通じました。そして…
僕の悪ガキ人生の始まりでもありました。
こっそり抜け出しては警察にいたずら電話。
病院では病室の窓から通行人に絡んでこう叫ぶんです。
「おい!そこのお前!聞こえとるか!!俺は生きとるぞ・・・!!!」
こんな感じで僕の普通の人間になるための戦いは始まります。
小学生~中学生時代 問題児黄金期

入学して早々ぶつかったのは、保育園に行けなかった分培うことができなかった対人コミュニケーションです。
かなり苦労したのを覚えています。
しかし、ある日校門の大きな木にぽっかり空いた空洞で隠れているところに話しかけてくれた友達Yとの出会いがきっかけでありがたいことに自分の事を好いてくれる友達がどんどん現れました。
地域では悪さばかりで毎日のように親と頭を下げて回りました。
学校でもありとあらゆる悪行を働いたYと僕を含めた4人は当時流行っていたドラマに登場する学園のトップ集団「F4」(エフフォー)になぞらえて「アホ4」と呼ばれるのでした。
そして授業もろくに出ずに過ごす中、ある日自分たちは校長先生に呼び出されました。
どうせまた自分の事を怒るのかと、食らわないぞとみんなで覚悟して校長室に入るなり、先生は他の先生を全員仕事に戻らせお茶を出したんです。
何を言われたかはもうあまり覚えていませんが、そのとき僕たちは子供ながらにこう誓うのでした。
「「この人だけは裏切れない。」」
こんな暖かい人に囲まれて僕は卒業します。
中学は一人で暮らしたいという希望もあり、隣の大分県私立中高一貫校に進みます。
そして

こうなります。
流石にいつもこんなではないですが、なかなかに中学校でも問題児でした。
それでも寮に入ってるのでこの時期に上下関係は徹底的に叩き込まれました。
挨拶、お風呂や食事の際のすみわけなどなど…今だったら一発でニュースになるものも多かったです(笑)
素行が悪く、通称「外禁」(外出禁止)になる事が多かったのですが、そうなれば布団に新聞紙とガムテープで作った通称「ダミー」を仕込んで寝ているよう偽装し、窓から飛び降りて遊びに行きました。毎回見つかっては経路を説明させられ対策され、そのたびに新たな経路を見つけました。
そんな感じでろくに勉強もせず中学時代を過ごしました。本当に親不孝ですよね。このころはこの生活に何の違和感も感じませんでした。
高校~大学 自分が大きく変わった瞬間
部活はあまり興味がなく、とりあえず経歴として所属だけする、練習には出ず、なんとなく飽きたら転部する、といった本当に恥ずかしい体たらくでした。
こんな自分を最後まで見捨てずいてくれたのが当時寮にいた寮母でした。
もう老人の女性でしたが、毎日のように喧嘩しますし、対等に立ち向かってくる。当時大人が大嫌いな僕には最も嫌いで、なのにどこか気になる、そういう存在でした。
ある日寮母は学校で一番怖く、喧嘩をふっかけた生徒を家まで追いかけたという伝説を残すバスケの顧問に僕を入部させることを頼んだのでした。
これが僕の更生する一番大きな分岐点になりました。
バスケ顧問の言われるがままに退部届とバスケへの入部届を書かされた僕は高校の途中からバスケ部に入部します。
ここではさぼりやズルは許されず、また普段の行動もすべて監視下に置かれました。普段の学校で何かあれば僕は部活に出れません。外で落ち葉を掃除したり、靴箱を拭いてました。多分残りの学生生活の半分くらいはこれでした。清掃部と言っても過言ではありません。
ただ、最初はいやいや入れさせられたと思ってたのに、バスケと部活に励む自分にどんどん魅了されてしまい、次第にどうしても部活がやりたくなるのを感じていました。
自ずと非行も徐々に減り始めました。
そして小学生の時に感じた気持ちの正体を掴み始めます。
人への感謝です。
こうして自分は受験期へと入るのですが、このときも自分が大学に入りたいのは、見捨てずに育ててくれた恩師に感謝を形で伝えたい。この一心でした。

しかし高校受験がなかった分高3から中一の勉強を始めた自分では世間の知能にとてもじゃないけど追いつけませんでした。
高みを目指したこともあり、受験した学校はすべて落ちました。
しかし自分はどうやっても晴れ晴れしい姿を寮母や恩師にみせなければいけないと思い、親に頼み込み2年の浪人期間を過ごさせてもらいました。
当時自分のような非行少年が少しはまともになり、教育にも希望があったというところを買ってくれる人がちらほらいて、自分は教員を目指したいと思いました。
そして教員育成に特化した公立大学に進むことになります。
まあまあ頑張った大学だったので、寮母さん喜んだの覚えてます。
やりたい放題の大学生活

入る事で満足しちゃい完全に堕落しました。
大学でもバスケは続けました。サークルの会長もやりました。
毎日のように遊んでばっかでした。車も買いました。これは自慢で供養させてください。

大学はこれだけですね…
ただ生きるために色んなバイトをしました。一日で3つくらい掛け持ちしてました。ここで色んな世界を見れたのは勉強になりましたし、社会の面白さも発見しました。
この中で自分が発見したのは、地域と関わる事の面白さでした。
その地域によって色んな文化を持った人が、支えあって町をつくっている。
特段そんな気がない人たちも、生きている以上、働く以上その一員だし、
実は少し誇りを持っている。
そんなところに魅力を感じ、自分は先生ではなく、こういった地域を誇れる人をどんどん知って、増やすための仕事がしたいと唯一社会に対して関心が持てたのでした。
そして就職活動の時がきて、いろんな企業を探しました。自分の特技は何か…どんだけ暴かれてもルートを作り出すアイデア力と行動力だと思いました。
これを活かして地域にも貢献できる企業はないか。と考えた時に偶然イベント21を見つけました。新卒から自発的に色々なことができる。これは自分にとってはうってつけでした。

入社してから
大きく今までの社会に出てからの生活で印象に残っていることは2点あります。
①社会の厳しさを知るというとです。
自分には物事を慎重に確認・管理する能力が欠如していました。
幼少期から、抜けてるやつで通してきましたが、あまりに顕著にこれが現れたため、真剣に向き合わざるを得ない状況になりました。
色んな人に相談しながら精一杯自分なりのやり方を考えました。
今も戦っています。
②プロジェクトのリーダーをさせていただけたこと。
弊社の自社開催イベントであるイベント21祭り委員会の委員長に立候補しました。こんな地域にダイレクトに関われるプロジェクトはないと感じたからです。
結果は大成功でしたし。今後もっと地域に密着したものにしていきたい。
これが現地の文化を数ミリでもより良いものに変えてしまうようなきっかけになってほしい。そう考えています。
言いたい事は山ほどありますが…自分のスペックが低い分、本当に色んな人が支えてくれてくれています。出会いの数だけ人が成長する、これは本当だと思います。これから自分がどれだけのものを返していけるのか。そんなことばかり考えています。。
